2012年1月4日水曜日

地名について(台湾)

 臺灣總督府交通局鐵道部『臺灣鐵道旅行案内』(臺灣日日新報社、1930年)を図書館で見つけた。文字通り、臺灣總督府鐵道に乗って、台湾を旅行するためのガイドブックである。いまとなってはさすがに旅行ガイドとして用を成さないが(時間旅行と考えるならば面白いが)、この冒頭に設けられている「臺灣早分かり」の中の、地勢、気候などの概論は今読んでも面白い。その中のひとつの章の「地名解」が、私には特に面白く感じられた。旅している場所の地名出自が分かれば、さらに旅行も面白くなるので以下に引用する。
(ちなみに、1930年発行のため、著作権は切れている。以下、旧字体、旧仮名遣い等は出来る限り改めた。ただし、地名については原文のままとする様努めた臺灣の「臺」については現地でも「台」に置き換わっているためこの限りでない。) 


以下引用(P41~44)




台湾地名解


 台湾の地名中には、領台後内地風のものに換えたのもあるが、今尚旧名を其のまま用いている処も少なくない。是等の別地名は、凡て支那風に音読であるが、其の文字だけ見てもその意義が不可解で訳の解らぬものが十中八九を占めているから、ここに夫等の起源を概括的に説明して旅行上の参考に供しよう。


 台湾各地の地名の起源を見ると、(一)蕃語を漢音に字訳したもの、(二)自然的形象に基づくもの、(三)歷史的沿革に基づくもの、(四)拓殖当局の情勢に基づくものの四つに区別することが出來る。蕃語を漢音に字訳したものとしては、北投
ほくとう
(蕃名バットウ)、羅東 らとう (同ロトン)、士林 しりん の別名八芝蘭(同パチナー)、苗栗 びょうりつ の別名猫裏(ヴアリ)等の如きであって即ち北投『バッタオ』は平埔蕃族の蕃名であり、又蕃語では羅東の『ロトン』は猿の義、八芝蘭『バチナァ』は温泉の義、猫裏の『バアリ』は平原の義である。



 自然的形象に基づくものは、台北、台南、台中を初めとして、渓州・湖口の如き、水邊脚 すいへんきゃく 赤山 せきざん の如き、磺山 おうざん 桃園 とうえん の如きで、或は地形に基づき、或は所在の位置に基づき、或は地文上の特徴乃至物産によって名づけられたものである。
 歴史的沿革に基づくものでは、澎湖の紅木埕がある。之は蘭木の築城に因んで紅毛城址と言われていたもの。また南部台湾の領旂
りょうき
・石營・國公府・二鎭・中協・角宿等の如く領・營・鎭・中協・角宿等の字のついた所は大槪鄭氏時代の駐屯地だったのに因んだものである。清領後に於いて歴史的沿革にもとづくものとしては嘉義がもっとも有名である。即ち此の地はもと諸羅
しょら
と称していたが、乾隆中林匪の乱に土民義を守った功を記するため清廷が定めたものである。其の他行政機関の新設等により佳良の文字を選んで別名に換えたもの、例えば彰化
しょうか
恒春
こうしゅん
等の如き、または地方第二次の発展に伴い、新街庄を建設するに当たり別街庄に対して新設の意を表し、新庄、新街、新店等と名づけたところも少なくない。
 拓殖上の情勢に基づくものとしては、田藔
でんりょう
竹圍
ちくい
銃櫃
じゅうき
隘藔
あいりょう
庄等を初めとし、圍・城・柵・結・股・份・張犁等の字の付いた所がそれである。元来台湾の拓殖は官府の保護なく各自が分に応じて自営の計をせなければならなかった。即ち開墾者は一定の地をトし竹を構えて屋とし、之を俗に田藔と言い、開墾成り人民繁殖し村落の形を整えて来ると竹を植えて籬とし、盗賊の侵入を防いだ。之を竹圍という。即ち田藔庄・竹藔庄等の名は之に因んだものである。然し、当時は尚生蕃の跳梁していた地域が甚だ多く、従ってこれ等の地方の拓殖は一方に鋤犁を手にして開墾を計ると共に、他面戈を執って防蕃に当たらねばならなかった。即ち圍・城は是等防蕃用の土城をいい、柵・藔は堡柵・隘藔を意味し、銃櫃・隘藔と同様隘勇兵を置いた所である。結・股は宜蘭地方に多い地名であるが、之は此の地方の拓殖が団体的に行われた為に此の団員を十数班に分ち、各班に結首を置いて分割開墾させた。即ち、一、二、三、四結等の地名は、此の結首分担の数に因んだものであって、股は其の開墾地の股分に依ったものである。又張犂(台湾の田制は蘭人の遺制に則り甲を以て計る一張犂は五甲)は土墾開墾の延長に因み、份はもと脳竈を設けたに因んだものである。以上の外、碑・土・牛・牌・埤・坡・圳等の字のついた所も多い。碑・土牛は清廷が民蕃の境界を定め其所に土牛江線及至碑を立て漢人の蕃地侵耕を禁じたに基づき、また埤・坡・圳は何れも灌漑用の施設物であって何れも其の所在地なるに依って名づけられたものである。尚阿里史
ありさい
房裡
ぼうり
日南
にちなん
日北
にちほく
等の地名が各地に散見するがこれ等は彰化・新竹地方より移住したものが原籍地名を再現したものである。 





引用終わり


 光復(もともとの意味は元に戻すということ。転じて日本統治が終わったことを指す。)以降、あたりまえだが、地名が変わったところも多いようだ。象徴的なのが、その光復という文字が新しい地名として使われていることだろう。たとえば花蓮の光復郷がこれにあたる。ちなみに、その光復郷が新設されたのは、1947年の3月1日である。二・二八事件の直後ということになる。「光復」という名を望んだのは誰だったのか、事件以後、この地名はどのように捉えられていたのかなどとつい考えてしまう。
 日本人がつけた地名が残った場所もある。たとえば、高雄近郊の岡山(羊肉で有名)や、台中近郊の清水などがこれにあたる。


地名一つとっても、なかなか面白いものである。






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